若き早川英俊の手帳から 其の1   1927年3月14日〜18日

 
 

 小生儀、この度、冨澤智恵子16歳なる少女と婚約をなせり。小生21歳(数え、以下文章中の年齢は全て数えで表記)にて妻の年16歳は、この東京廣しといえども未だ小生の知る処にあらず。

 智恵子と小生の婚約せん動機は、彼女の余りに聡明なるに小生は心を打たれたる為なり。年少なれども見込みあり、他に智恵子を差し置き小生の求むる女無しと思えるに至る次第なり。

今日、昭和二年三月十四日午後、彼女と先々の事に付き種々の話をなせり。小生は都合上結婚は来月の中頃に致したいと話せしに、智恵子は承諾をなせり。今日より思うに四月半ばに結婚を致せば、苦しみ多くあれども、後に楽しみが早く来ることを信じて居る...いや自分の力で必ず幸福なる様にするべく努力することを誓う。    三月十四日夜 早川英俊 記す

 

結婚を決意する  1927年3月14日 記す(満20歳)

1923年から1930年頃まで早川英俊が常用していた黒革の手帖

早川英俊回想録を補足する1927年3月14日満20歳の時に書れた手帳からの生々しい気持ちを再録した「結婚を決意する」と、3月18日結婚に反対する親に勘当された次第を述べた「分家のことについて」の2編を収録

分家のことについて  1927年3月18日 記す

 小生の結婚に対して不服の弟顯則が言い出せしため、種々と手違いを生じ一家の円満を欠くというので、父までが不賛成を言い出し小生の分家致すに付いても、全体に反対の言に出だしたので、今日小生が父の元へ円満に僕の分家致せて下さいとの頼みに行きしに、親の命令に従わざる故に分家はさせんと言へり。

 僕としては如何に親の命令とはいえ一旦約束なせる智恵子を捨て、他の何物も求むるはこの世の中に無しと信じ且つ、自分として智恵子と別れたら明日から僕は狂死にに死んでしまうだろうと思う。

 故に父の意見に背きて飽く迄も争えり。最後に父は曰く、よしそれほどまでに親に背きてまで分家致し度くばさしてやろう、其の代わり今後何ごとも口出しはしないから、親の元へ何によらず言うてくるなと言えり。そして僕に証文を出せと言いしにより、余は下の如き書を父の元へ差し出したり。

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           證言ノ事

  小生儀、今般分家致せし故からは今後如何なる

  事あるとも金銭其の他迷惑相掛け致さざるべく候 

                   英俊 印

              昭和二年三月十八日

  早川柳太郎様

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 上の様な證書を出して分家届書へ父の同位の判をを突いてもらえり。この時の僕の胸の中の苦しさは、知る人ぞ知るである。僕はこの時、今まで長らくお世話になりし父母に背きて、親と別れるような事になりしも皆、弟顯則が成せることと思えば顯則が憎くて憎くて仕様が無い。

しかし是も僕が智恵子を求めて彼女と結婚をしようとしたのが原因であるのだ。

もうこうなってしまったからには仕方が無いから、僕は自分の出来る限り智恵子を愛してやるのだ。

そうすれば智恵子も僕を父よりも母よりももっともっと愛して、且つ慰めてくれるだろう。

僕は今日と言う今日ほど今までを通じて泣いたことは無い。箱崎で父と話をしていた時には堪えていた涙が、一度に出てきて止めようもなかったので、僕も泣けるだけ泣いた。竹町の家へ帰ってきてからも、これを書いている時も僕はないていた。自分では泣くまいと思っても、後から後から涙が出て来るのだもの。今日は智恵子が王子に行って居ないのだ。もし智恵子が家にいれば一緒に僕と泣いてくれただろうと思う。

                             昭和二年三月十八日夜11時記す

ああ僕は一生を通じてこの三月十八日という日を忘れることが出来ないのだ。これによって僕は益々成功しなければならぬと思う。               早川英俊 21歳

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本籍地  東京市下谷区竹町17番地

戸 主  早川英俊  明治四十年三月十五日生

 妻   早川智恵子 明治四十五年二月十八日生

現住所  下谷区竹町17番地

ズボン商 早川英俊

            昭和二年三月十八日記