若き早川英俊の手帳から 其の2   1927年12月5日〜10日

 
 

歩兵第七十三連隊第五中隊早川英俊

昭和二年十一月三十日午後一時東京駅出発。十二月一日午前四時四十三分大阪駅着。直ちに指定宿舎である天王寺公園前吾妻館に宿泊なして、約二時間の眠りを取りて朝食を終へ京都見物に行く。市内電車にのりて我ら一行下谷区兵員六名は皆元気な顔をして、天満橋にて電車を捨てて、京都行き急行阪神電車に乗り約一時間にして伏見に到着。それより乗合自動車にて桃山御陵に参拝なして返り、乃木神社に詣でて色々なる宝物を拝見なして伏見に戻り、約十八分にして京都三条に到着し、祇園、丸山公園、清水堂、三十三間堂、東本願寺等約三時間見物して京都駅にて、急行列車に乗車をなし大阪着。上岸君おごりの円タクにて吾妻館に来舎なせり、時午後四時二十分也。

自分が京都を見て特別感じたのは、街の至る所に芸者や舞妓などが歩いて居るのが、皆が皆、美しいし町の家並みなどに正に相応しくて、他の市で見ることの出来ない処である。

夜は東京へ宛てて礼状を書いてみたが他の人が騒ぐので書いておられず、10枚ばかり書いてやめてしまった。何となく頭が重くて風邪をひいたらしいが、明朝は検査があると言うので十一時になって

お湯へ行き直ぐ寝てしまった。

翌二日午前七時半に天王寺公園内にて京都連隊区の交付員が羅南より出張の兵員受領員の受け渡しがありまして、それが済むと早速身体検査がありました。下谷区兵員七名の内二名は返されましたが、私は幸いにして合格いたしました。

三日の日は受領員に引率されて大阪市中の見物をいたしました。四日の日も大阪市中を見物なせり。五日は各人自由行動を許されたので、同じ部屋に居る者六名とともに中之島公園来たりて、ボートに乗りて午後四時まで面白く遊びて宿舎へ帰り、明日乗船なす時に必要なる食料品及び日用品等を買い込みて宿舎へ帰り十時に安めり。

六日朝五時半に起きて朝食をとりて六時半天王寺公園へ集合なし、七時出発電車にて築港へ行き九時半に乗船なす。指定の部屋へ来てみてその中が狭くて汚いのに驚いた。船は瑞光丸と言って活用船にて正十二時大阪築港出帆、清州に向かう。         昭和二年十二月五日 早川英俊 記す

祝入営までの日記1  1927年12月5日記す(満20歳)

1927年12月から1929年5月まで早川英俊が兵役生活を送った北朝鮮の羅南地区

(左端が満20歳の早川英俊)

早川英俊回想録を捕捉する為1927年12月5日から10日に書れた手帳から徴兵され、赴任地の朝鮮羅南に向う道中の記録、入営餞別計56円内訳の明細、道中の出金記録出納帳など「祝入営までの日記」1、2、「連隊生活中の特記事項」を収録

 一時に出航した我らの乗っている陸軍活用船の瑞光丸と言う六千六百余トン船は、瀬戸内海の静かな波の上を気持ちよく走っていきます。その日の午後十時頃は丸い銀のような月が波の上を照らして誠に綺麗でありました。部屋へ行けば約二千人の兵員達は皆浮かれて居て大変な元気でおりました。

翌日七日正午頃には左に九州右に下関がすぐ近くに見える所へ来て居ります。

その狭い海峡を通り過ぎてから玄界灘へ差し掛かって参りました。すると今まで静かであった海が、だんだん荒れて来て空の色までも曇って来て、波は大きくなり船は左右にグラグラ揺れて甲板に立って波を見ていると、船は波の上に乗り上ったかと思うと次には自分が波の中へ巻き込まれてしまうかと思うように、船が下にさっがて来て気持ちの悪い事こと夥しいので、船室へ入って行くと今まで元気でいた人達が、あちらでもこちらでもゲーゲーと戻しておるので、自分まで戻したく成る様な気がしてそのまま寝てしまった。

翌日八日は上天気で船は今、北日本海の真ん中を走って居る。昨日ほど揺れはしないが、風はそうとう強い。内地と違って西へ行くに従って日輪様の出るのが段々と遅くなって来るのが分かった。朝の日の出が七時過ぎて日の入りが四時頃である。

九日は夜が明けても矢張り日本海を船は走って居る。その日の午後二時に待ちに待った清津港へ到着致したので嬉しかった。その夜の船室は破れる様な賑やかさで、入営兵の多くは皿小鉢を叩いて歌を歌う者、雑談に耽る者等昨夜とはまるで違った世界であった。

十日午前に上陸を許されて二町ほどの所を荷足に乗って朝鮮の第一歩を歩んだ。その時の気持ちは実に嬉しかった。清津駅より汽車に乗り一時間ばかりで羅南に着く。駅前には連隊長を始め幹部一同が迎えに来て居たが、全て夢中の内に走歩して七三部隊へ入営した。   終わり

                         昭和二年十二月十日 班内にて 早川英俊

祝入営までの日記2  1927年12月10日 班内にて記す

福田勝太郎様     金五圓                      黒沢エプロン店  金弐圓                 

早川秀一様        金五圓                      黒沢正子様         金壱圓                   神岡松雄様        金壱圓

早川護正様        金五圓                      高須治平様         金三圓                   岸様                 金壱圓

早川茂孝様        金弐圓                      中根愛二様         金弐圓                 計二十六人 五十六圓也

早川柳太郎様     金十圓                      富沢房次郎様      金五圓                                  見送り人 

田巻常一様        金壱圓                      岡倉若七様         金三圓                               折原吉太郎様

町内会9軒より   金四圓                      沢 寛二様         金壱圓                                  布施勇蔵様

吉岡伊三郎様     金五圓                      都築粂太郎様      金壱圓                                  鈴木鉄造様


昭和二年当時の金銭価値は、物価指数換算で考察すると一円が現在の636円に相当すると書かれている。五十六圓の餞別は35,616円、一人当たり1,370円で少なすぎと感じるが、実際の生活物価では2000倍とも言われているので112,000円になる。一人当たり4,300円と今の価値観とも符合するし、下の金銭出納帳の商品価格とも符合する。壱圓が2,000円で、兄達が1万円、父が2万円の餞別だ。



入営御餞別控及び見送り人控